from 宮城哲郎
僕の活動の中で、もっとも長く、そして最も「愛着のある」存在。
それがサンビスカス沖縄だ。
サンビスカス沖縄は総合型地域スポーツクラブとして、2008年に誕生。
僕がブラジルから帰国して間もなく、
これまた同じ起業家でもある弟と(ミヤギタスク氏)
一緒になって立ち上げたスポーツクラブであり。
ブラジルで味わった「スポーツが街を動かす」という感覚、
その感覚を地元の沖縄でも実現出来ないか?
そう思って、ゼロから立ち上げたクラブだ。
最初の頃は、カネも無ければコネも無い。
慣れないPC作業で作った「ヘタクソなパンフレット」
それを持って、地元の市役所に出向き。
地下3階から7階まで、とにかく全部署を周り、
「スポーツで街を元気にします!何かお手伝い出来る事はありますか?」
そういって必死でPRしたのが凄く懐かしい。
その後、僕の飛び込みに「見かねた(?)」一人の職員が、
ある課へ通してくれた。
その課は、地域の企画政策の部署だったのだが、
そこでこう言ってくれた…
「君、これだけ想いがあるのなら、
2週間後にある街づくり委員会で発言してみないか?」
当時の僕は必死だ、
どんなに小さな事でも全てがチャンスに見えた。
もちろん、この話も凄く有難かったので、
僕は間髪入れずにその話を受ける事になったのだが。
結果的に、これを受けた事が本当に良かったと今でも思う。
お金にもならない。
ただ、地域の街づくりを考える場での意見交換会での出来事。
僕が、そこで知ったのは
生まれ育った地元のリアルな地域課題だった。
僕は、必死になってその課題のほとんどが、
「スポーツという手段で解決できる!」と伝えた。
結果的に、1つ、また1つと…
地域の問題や課題に対して僕が出来る手段(サッカー)で、
解決していった。
僕が描いていたスポーツビジネスとは、
物凄く「華やかな世界」だった。
だけど、実際に僕が最初に体感したのは、
華やかな舞台の裏側にある地域のリアルの問題であり、
それを解決すべく、
多くの人がスポーツという手段に期待している事だった。
僕が、最初に取りかかった活動は、
小学生の放課後の居場所づくりだ。
放課後、いく宛もない子供達、部活動も盛んではない学校で。
子供達が、親が帰って来るまでの間、
安全に、健全に時間を過ごせる場所をつくることだった。
僕は、すぐに「サッカー」を活用した。
「放課後、時間がある子は校庭に集まって!」
そして、みんなでとにかくボールを蹴った。
年代別でチームをわけたり、
男女混合でチームをわけたり、
女子だけで試合をしたり、
血液型でわけて試合をしたり、
とにかく、学校が終わってから数時間、
暗くなるまで子供達と一緒になってボールを蹴った。
この活動が結果的にクラブに、
サッカー事業が誕生するきっかけになったのだが。
その期間は、本当に多くの地域住民の人達と話、
そして、色々な問題や課題を知る事になった。
この出来事が、
僕の「スポーツビジネス」のヒントになり、
プロスポーツでなくてもスポーツという手段を活用し、
多くの人達の価値として提供出来る確信を持った経験になった。
スポーツの持つ「特徴」を、どう活かすか?
その発想の原点になったのは、
きっと、10年前の出来事がきっかけだと思う。